陳舜臣アジア文藝館 NEWS  


1999年のエッセイ
 単行本 未収録のエッセイを整理しながら、こちらで公開していきます。

酒とバラの日々         陳舜臣

 三年前に私は六甲山麓の家から住吉川のほとりのマンションに引っ越した。六甲の家には三十年も住んでいた。それは六甲学院の向いで、中学高校の男子校なので、元気な少年の声がきこえて、私は気に入っていた。だが、子供たちが仕事や結婚で家をはなれ、老夫婦二人だけになると、手に余ることが多くなり、なにかと便利なマンション暮らしをえらんだのである。
 私は一九九四年の八月に脳内出血で倒れ、その後遺症で、いささか体が不自由である。三年前の引越しにも、親しい編集者や記者たちに手伝いをお願いした。本箱を整理していたM社のTさんが書斎から大声で、
「先生、ひどいですね。二、三十本もありますよ。こんなところにかくしておいて、いつも一杯やりながら仕事していたのですか?」
と、言った。
 本箱の空いたところに、ウィスキーやブランデーの瓶を四、五本置いてあったのをおぼえている。
「かくしているなんて人聞きの悪いことを言わないで下さいよ。置いているだけなんだから、二、三十本は大袈裟だよ」
 と、私は答えた。
「大袈裟じゃありませんよ。それじゃかぞえてみますよ。空(から)のはありません。みんな半分ほど飲んでいますね。いや、これはひどい。ひと口ほどしか飲んでないのもありますよ」
 むきになってTさんは言った。かぞえてみると、驚いたことに三十本を越えていた。
「なにしろ三十年もためたんだから」
 私はやや納得した。一年に一本だけ飲み残した瓶を本箱の空いた所につっこんでおくだけで、三十本になるではないか。
 本棚の最下段は広くとってあり、本を奥までつっこんでおくと、背表紙が見えないので、少し前に出してならべてあった。しぜん奥のほうにスペースができて、ボトルが鎮座することになる。
 そのボトルは手伝いに来た人たちに「処分」してもらった。私が倒れてから、あまり飲めなくなったのを、皆さん知っているので、贈答用の酒はきわめて少なく、置き場所に困ることはなくなった。
 負け惜しみではないが、少量しか飲まなくなって、酒の醍醐味がかえってよくわかるようになった。ウマル・ハイヤームのように酒の彼方に、美女やバラが遠景としてみえる趣きは、私は今にしてやや会得した気がする。
 水割り焼酎のコップを手にして、窓から外を見ると、住吉川の流れが見えた。谷崎潤一郎の旧邸がこのあたりであり、灘中の生徒が川筋を元気よく走っている。

 
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